北西海岸インディアンの社会構造・歴史
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北西海岸インディアンの社会構造 | |
太平洋北西沿岸部のファーストネーションズは 今から3万~1万年前にシベリアからベーリング海を渡ってやってきたと言われています。また約6000年前の地層からも、そこに古代文明が存在したとされる証拠が多数見つかっています。当時、カナダの他の部族と比較して、太平洋沿岸のファーストネーションズは精巧な社会構造を持っていました。そこには3つの異なる社会層(貴族、平民および奴隷)だけでなく、 生まれながらにしての家柄による上級の貴族階級も存在していました。 この社会制度は部族ごとに異なっており、ハイダ族、ティムシャン族、クワキュトル族には広まっていましたが、ヌートカ族、コーストサリッシュおよびベラクーラ族には明確な記録はありません。また部族ごとにそれらの階級や家柄をどう認識していたかは様々で、ハイダ族とティムシャン族は母系でしたが、他の部族は、家族ごとに女系か男系かのどちらかで区別していたようです。
すべての部族の基本的な社会集団は、共通の祖先の血を引く家柄の拡大家族でした。またその中でも家系ごとに、漁場や甲殻類の収穫場所、木材伐採や樹皮を集めるための特定の場所を持っていました。また知的所有物として、特定のダンスや名前を使用する権利、儀式のための特別なマスクを着用する権利を持っていたようです。 大抵の家系は独自の紋章を持っていました。それら紋章はトーテムとも呼ばれ、彼らの祖先と考えられた動物や精霊が表現されました。これらの紋章はヨーロッパ貴族の紋章に似ています。紋章は、建物の外部や寝台など、出来るだけ多くの場所や方法で描かれ表示されました。時として身体に刺青として彫られたり、顔に描かれたり、衣服に織られたり、儀式用のマスクや皿、スプーン、貯蔵箱にも彫られました。例えばベントウッドボックスと呼ばれる貯蔵箱には、正面、側面、そして上部や底部、そして時には内部までも彫刻して装飾してあります。これらの紋章や先祖への献身により、北西沿岸部族の芸術作品は、非常に特殊で強力な芸術の域に達し、今日、世界中の博物館や美術館で賞賛され文化的遺産として認められています。 部族の紋章が最も表現されたのは、祖先から継承したすべてのシンボルからなるトーテムポールで、巨大なレッドシダー(米杉)で作られ、シンボル化された動物や人間が、様々な物語を形成しながら刻まれました。トーテムポールは記念柱や玄関柱のほかにいくつかの種類があり、酋長が死んだ時、彼の後継者は、酋長の権利や地位を残すための記念柱を建てました。玄関柱は、家の正面にまっすぐに建てられ、そこに住んでいた家系を誇示するように、それを高く掲げました。このような柱の下には大きな間口が開いていて、実際には入口の役割を果たしていました。柱はさらにいくつかの特権を表していたようです。例えばクワキュトル族とヌートカ族では、頂部が鳥のような姿になった高く細い柱は、海岸所有者の家を示していました。この特権は、祝宴に重要な訪問者を最初に招くことのできる権利を受け継いでた酋長のみ持つことができました。 この種の明確な社会構造はノースウェストコースト全域の特徴といえます。奴隷を例外として、貴族や平民それぞれの集団の中にも、最高位から最低位まで社会的地位がありました。例えばクワキゥトル族では、貴族の中のこの社会的ランキングによって、祝宴の儀式における正式な着席順をも決定していました。すべての血統家系の指導的地位は、通常、創立者の子孫であるグループ中の最年長のメンバーである酋長によって所有されました。酋長は家系のすべての 人間が満足がいくように、物事を判断する責任がありました。家系の中で最下位の平民は酋長と最も離れた親戚の人でした。この最下層の平民は、それにもかかわらず祝宴の儀式に参加したり、家系全体に属する名前を使用する権利など、いくつかの権利を持っていました。 明確な社会構造を持つクワキゥトル族、ハイダ族、そしてティムシャン族でさえも、個人の社会階級の地位を修正することが可能でした。特に熟練したカヌー製造者あるいはマスク彫刻者だった下位ランクの平民でも、もし彼の仕事が酋長によって認められれば、彼のランク以上に特権を獲得することができました。反対に、嫌われた者は最小の特権と経済的便益だけしか受け取れなかったのです。コーストセイリッシュ族とべラクーラ族では、個人の能力に応じて地位が高くなったり低くなったりすることがたびたび起こっていたようです。そして社会的な地位だけでなく血統というのも重要で、最も強力で最も有名な血統の長が村の長に選ばれました。 それぞれの村のそれぞれの家系には、私有の奴隷がいました。これらの奴隷は、通常、戦闘の際に連れて来られたもので、もし奴隷の血統が裕福であったならば、彼らは身代金と引き換えに釈放されました。奴隷達は、薪を集めたり、ハマグリを掘り起こしたり、卑しい重労働を行ないました。 太平洋沿岸のファーストネーションズ達は、寛大な海に恵まれ、サケ、貝類・エビ・カニなどの甲殻類、ニシン、ワカサギ、タコ、カニ、クジラ、海草を豊富に収穫して、定住生活を可能にしました。15年ごとに移住を繰り返したイロコイ族とは異なり、太平洋岸の部族は永住の村を構築することが出来たのです。いくつかの村落地は、4,000年にわたる占有の証拠を残しています。彼らは、フィヨルドの、湾や入り江の深部の海岸に住んでいたので、大波から逃れることができました。それぞれの村には10から30の小屋が立ち並び、人口は200人から700人位がいました。 |
Published under the authority of the Minister of Indian Affairs and Northern Development.Ottawa 1996